遠隔時代の身体
東京工業大学
教授
伊藤 亜紗
教授 伊藤 亜紗
新型コロナウイルスの感染拡大によって、私たちの生活は大きく様変わりしました。レジや受付などには透明の衝立が置かれ、親しい人とも距離をおいて座らなければならず、授業や会議はリモートで行われるようになりました。新しい生活の大原則は、言うまでもなく「距離をとること」です。
距離は断絶をもたらしますが、別の見方をすれば、新しいコミュニケーションが生まれるきっかけにもなりえます。離れていることで、私たちは何を失ったのか。離れていることは、逆にどんな可能性に開かれているのか。身体的なコミュニケーションの観点から考察します。
まず注目したいのは、触覚を介したコミュニケーションです。確かに、私たちの社会において重視されているのは「視覚」です。「目は口程にものを言う」の例のように、人間関係においても、視覚的な情報がもたらすニュアンスが大きな意味を持ちます。しかしながら、子育て、ケア、性愛、看取りなど、人生のさまざまな局面において、私たちは触覚を介したコミュニケーションも行なっています。そこには、視覚とは違う、触覚ならではの人間関係や倫理があります。
本講演では、この触覚ならではの人間関係や倫理のあり方を、視覚障害者など、日常的に触覚的コミュニケーションを多用している人たちの感覚をたよりに探ります。そこで大きな意味を持つのは「信頼」です。信頼は、安心とは異なります。安心は、不確実な要素をなくそうとするあまり、相手を支配してしまうことになりがちですが、信頼は、相手に任せ、その自発性にゆだねることです。信頼は、人と人がお互いの潜在的な可能性を引き出しあう共創的なコミュニケーションにとっても不可欠なものです。
NTTと共同で開発させていただいている、視覚障害者とスポーツを観戦する方法「見えないスポーツ図鑑」についてもご紹介したいと思います。このプロジェクトでは、一〇種類の競技について、選手が感じているその競技の本質を、身近な道具を使って「翻訳」することを試みています。視覚障害者の視点を借りることで、振動やリズム、力のせめぎ合いといった触覚的な観点から、スポーツを再発見することができます。
離れていることで生まれるコミュニケーションの例としては、分身ロボットを介した関係の事例をとりあげます。分身ロボットを前にしている人は、それを操作しているパイロットと物理的に対面したり、お互いの体に接触したりすることはできません。しかしながら、そこにはかえってお互いの存在を強く感じるようなコミュニケーションが生まれています。距離をとることを強いられた時代に、「出会う」とは何なのか、考えてみたいと思います。

教授 伊藤 亜紗
2010年 | 東京大学大学院 人文社会系研究科 基礎文化研究専攻 美学芸術学専門分野を単位取得退学 |
同年 | 東京大学大学院にて博士号(文学)を取得 |
2013年 | 東京工業大学リベラルアーツ研究センター 准教授 |
2016年 | 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院 准教授 |
2019年 | (3月―8月)マサチューセッツ工科大学 客員研究員 |
2021年 | 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院 教授(現職に至る) |
受賞歴
2017年 | WIRED Audi INNOVATION AWARD 2017 |
2020年 | 第13回「池田晶子記念わたくし、つまりNobody賞」 |
2020年 |
サントリー学芸賞(社会・風俗部門) |
専門の内容
美学を専門としながら、身体性、哲学、アートに関連する横断的な研究をおこなう
著書
『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社、2013)
『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社、2015)
『目の見えないアスリートの身体論 』(潮出版社、2016)
『どもる体』(医学書院、2018)
『記憶する体』(春秋社、2019)
『情報環世界』(NTT出版、2019)(共著)
『見えないスポーツ図鑑』(晶文社、2020)(共著)
『手の倫理』(講談社、2020)
『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(講談社、2021)
ほか